Blvck Life Simz Back at It Again

中原中也が
ランボーが洞見したと捉えた「生の原型」とは
そのまま
中原中也が詩を作るという行為の根源を支えたものでもあり
詩作の原動力みたいなものでした。

ですから実際、
中原中也の詩の中に
場所を変え、形を変えて
現れます。

「言葉なき歌」
「いのちの声」
「ゆきてかへらぬ」
「幻影」
「曇天」
「除夜の鐘」
……と、思いつくままを例示しましたが
いま、「山羊の歌」をはじめから終わりまで読み通してみると
「名辞以前」に感じ取られた
「あれ」や「それ」や「なにか」が
それらは、言葉になりえないはずの
言葉以前のもののはずなのですが
詩の言葉になっているのを読むことができます。

これを
錬金術とでも言うのでしょうか
手品とでも言うのでしょうか

「盲目の秋」は

風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。

とはじまり、

その間、小さな紅の花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまふ。

とつづくのですが
この「紅の花」は
「言葉なき歌」の「あれ」、
「曇天」の「それ」、
「除夜の鐘」の「それ」と
相似する「生の原型」のように見えはじめます。

「夕照」の
「小児に踏まれし貝の肉」は
ほかの言葉で言い換えることのできない
名辞以前の
「いのち」そのものを指示する言葉のようですし

「少年時」の
「昔の巨人」は
ギロギロする目で諦めていた少年
生きていた私の
「いのちの不安」を示しているようです。

「山羊の歌」の他の詩から
このような意味での
「いのちの言葉=キーワード」を拾ってみると――

「春の日の夕暮」の「静脈管」
「都会の夏の夜」の「ラアラア唱ってゆく男どち」
「黄昏」の「草の根の匂い」
「深夜の思ひ」の「頑ぜない女の児の泣き声」、「鞄屋の女房の夕の鼻汁」
「冬の雨の夜」の「乳白の脬囊(ひょうのうたち)」、「母上の帯締め」
「帰郷」の「年増婦の低い声」、「吹き来る風」
「逝く夏の歌」の「日の照る砂地に落ちていた硝子」
「悲しき朝」の「知れざる炎」
「夏の日の歌」の「焦げて図太い向日葵」
「港市の秋」の「蝸牛の角」
「ためいき」の「ためいき」
「秋の夜空」の「昔の影祭」、「上天界の夜の宴」
「宿酔」の「千の天使がバスケットボールする」
「わが喫煙」の「白い二本の脛(あし)」
「木蔭」の「夏の昼の青々した木蔭」
「みちこ」の「牡牛」
「汚れつちまつた悲しみに……」の「狐の皮裘」
「更くる夜」の「湯屋の水汲む音」、「犬の遠吠」
「秋」の「黄色い蝶々」
「修羅街挽歌」の「風船玉」、「明け方の鶏鳴」
「雪の宵」の「ふかふか煙突」、「赤い火の粉」
「生ひ立ちの記」の「雪」
「時こそ今は……」の「花は香炉」、「泰子」
「憔悴」の「船頭」
……

いくらでも見つかります。


ランボオ詩集
後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如
何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個
のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。改行を加えてあります。編者。

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「ランボオ詩集」の「後記」に

 言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、いわばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった宝島のごときものである。

――とある「生の原型」を説明して
「あらゆる風俗あらゆる習慣以前」と言っていますが
これが「芸術論覚え書」の「名辞以前」と
オーバーラップしていることは明らかです。

あらゆる風俗以前。
あらゆる習慣以前。

名辞以前。

それを一度洞見した以上、
忘れられもしないが
また表現することも出来ない、
あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった
宝島のごときものである。

表現することが出来ない
あることが分っていながら
どうやってそこへ行ったらよいのか
メモを残したわけでもなく
マニュアルを作ったわけでもなく
地図を描こうにも描けない
行き道の分からなくなった

宝島――。

この宝島は
中原中也の詩に
「あれ」を
なんとか捕らえよう
決して急いではならない
たしかにここで待っていなければならない
(言葉なき歌)

しかし、「それ」が何かは分らない、
ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、
ただ一つではあるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、
ついぞ分ったためしはない。
それに行き着く一か八かの方途さえ、
悉皆分ったためしはない。
(いのちの声)

「名状しがたい何物か」が、
たえず僕をば促進し、
目的もない僕ながら、
希望は胸に高鳴っていた。
(ゆきてかへらぬ)

……などと
所を変え、品を変え
度々、現れることになります。

あれ
それ
何物か
……

「幻影」の「それ」も
「曇天」の「それ=黒旗」も
「除夜の鐘」の「それ」なども
もしかすると
「宝島」の別の表現かもしれません。

「芸術論覚え書」は
昭和9年に制作(推定)された
未発表の散文です。

この頃
「宮沢賢治全集」(文圃堂)が出版開始になり
中原中也は
宮沢賢治の紹介文を書く機会(必要)がありました。

ここでまた
中原中也訳「ランボオ詩集」巻末の
後記を原文のまま読んでおきます。


ランボオ詩集
後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如
何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個
のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。改行を加えてあります。編者。

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「幻影」のピエロが伝えたがっているもの――。
それは伝えようとしても伝わらず
音もしないので
何かを言っているのですが
意味を受け取ることができないものです。
私の頭の中で
月光を浴びて
永遠のパントマイムを続けているだけです。

「言葉なき歌」の「あれ」は
遠い遠~いところにありますが
そこへ行くことができなくて
ずっと「ここ」で待っていなくてはなりません。
駆け出してそこへ行こうとしてはならず
待っていれば
フィトルの音のように太くて繊弱な
喘ぎも平静になるときがあって
あそこまで行けることもあるに違いないのだが
今は茜の空にたなびいているだけです。

「幻影」も「言葉なき歌」も
「在りし日の歌」中の「永訣の秋」に収められた詩篇です。
最晩年の作品です。

いっぽう
「いのちの声」は「山羊の歌」の最終歌です。
最終歌といっても
「いのちの声」が制作されたのは
昭和7年(1932年)ですし
「山羊の歌」が刊行されたのは
昭和9年(1934年)ですから
「在りし日の歌」の清書稿完成(昭和12年)までわずかです。

そして
「ランボオ詩集」の「後記」に記される「生の原型」と
かなりの部分がクロスする「芸術論覚え書」が書かれるのは
昭和9年です。

「芸術論覚え書」には

一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感
じられてゐればよい。

――と、はじまる中原中也一流の
「名辞以前」の世界が展開されています。

「感じる」とここにあるのは
「いのちの声」の最終行

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

――と、同じことの別の表現です。

「ランボオ詩集」の「後記」の
「生の原型」や「宝島」は
「芸術論覚え書」や
ほかに書かれた詩論、詩人論で
かなりの部分で近似する考えが表明されており
詩のいくつかでも実作されているものなのです。

(つづく)

 幻影

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう——
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 ◇

 言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼(あを)く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡(あは)い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方(かなた)で夕陽にけぶつてゐた
号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた

 ◇

 いのちの声

もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン

僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押し寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著(つ)く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。

時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

  Ⅱ

否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかは)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称して阿呆(あほう)といふものであらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ

だが、それが此(こ)の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端はないとて、一先ず休心するもよからう。

  Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

  Ⅳ

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(つづく)

 *
後記

(現代新聞表記版)

 私がここに訳出したのは、メルキュール版1924年刊行の「アルチュール・ランボー
作品集」中、韻文で書かれたもののほとんど全部である。ただ数篇を割愛したが、そ
のためにランボーの特質が失なわれるというようなことはない。
私はずいぶんと苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されている
が分かりにくいという場合が少なくないのは、語勢というものに無頓着すぎるからだと
私は思う。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気をつけた。
語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしな
かった。

     ★

 付録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の
頃、ある日小林秀雄が大学の図書館かどこかから、写してきたものを私が訳したもの
だ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出
たランボーに関する研究書の中から、小林が書き抜いてきたのであった、ことは覚え
ている。――テキストをご存知の方があったら、なにとぞ御一報くださるようお願いし
ます。

     ★

 いったいランボーの思想とは?――簡単に言おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼
はそれを確信していた。彼にとって基督教とは、たぶん一牧歌としての価値をもって
いた。
そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかった
はずだ。その陶酔を発想するということも、はやほとんど問題ではなかったろう。その
陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン言っていることも、要するにそ
の陶酔の全一性ということが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、しかも人類
とはいかにそのとるに足りぬことにかかづらっていることだろう、ということに他なら
ぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務(つとめ)はすむというものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見えるほど、忘
れられてはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、おそらくはここに
発した。
ところで、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思
想は、だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。もちろん夢というものは、容れ
られないからといって意義を減じるものでもない。しかしランボーの夢たるや、なんと
容れられ難いものだろう!
言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、い
わばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、
忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の
分からなくなった宝島のごときものである。
もし曲がりなりにも行き道があるとすれば、やっとべルレーヌ風の楽天主義があるく
らいのもので、つまりランボーの夢を、いわばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道
なのだが、もちろん、それにしてもその夢は容れられはしない。ただべルレーヌには、
いわば夢みる生活が始まるのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚
だ別個のことでしかなかった。
ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、おそらくこういう所からで
ある。

     ★

 終わりに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄
に、厚くお礼を申し述べておく。
〔昭和12年8月21日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)

※「現代新聞表記」に改めてあります。「現代新聞表記」とは、現代かな遣い、常用漢
字、現代送りがなを使用し、常用漢字にない漢字(表外字)はひらがなに、副詞・接続
詞なども原則的にひらがなを使用、さらに読点を適宜追加するなどして、読みやすくし
たものです。
※ルビは( )内に示しました。編者。


後記
(原文)

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アル
チュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ
数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなこと
はない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳され
てゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過
ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気
を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうな
ことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正
も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たもの
を私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌
か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が
書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方が
あつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の
思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌とし
ての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にも
なかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなか
つたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つ
てゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他の
ことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづ
らつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える
程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、
恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボ
オの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふ
ものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボ
オの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、
謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した
以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るに
は在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義
があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと
無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしな
い。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、
夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ
所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海
の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。

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大正13年(1924年)に
京都に遊んでいた富永太郎から
「仏国詩人等の存在を学」んで以来10余年
昭和12年(1937年)8月21日は
中原中也が亡くなる2か月前のことですから
「ランボオ詩集」の「後記」は
最終的なランボー観です。

そこに記されたのが
ランボー=パイヤン思想であり
ランボー詩=「生の原型」論であり
ランボー=「宝島」の発見でした。

分かりやすく「喩(ゆ)」で言われたこの「宝島」とは

それを一度見抜いてしまっては
忘れられもしないがまた表現することも出来ない

在るには在るが行き道の
分からなくなった宝島のごときものである。

――と換言されています。

ここのところで
中原中也が作った詩を
三つばかり想起してしまうのは
唐突なことでしょうか。

とりあえずその三つの詩を
ここに引いてみます。

 ◇

 幻影

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう——
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 ◇

 言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼(あを)く
葱(ねぎ)の根のやうに仄(ほの)かに淡(あは)い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)の眼(め)のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方(かなた)で夕陽にけぶつてゐた
号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜(あかね)の空にたなびいてゐた

 ◇

 いのちの声

もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン

僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押し寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著(つ)く一か八かの方途さへ、悉皆(すつかり)分つたためしはない。

時に自分を揶揄(からか)ふやうに、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

  Ⅱ

否何(いづ)れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかは)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このやうに無私の境(さかひ)のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称して阿呆(あほう)といふものであらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ

だが、それが此(こ)の世といふものなんで、
其処(そこ)に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よつ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端はないとて、一先ず休心するもよからう。

  Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

  Ⅳ

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

(つづく)

 *
後記

(現代新聞表記版)

 私がここに訳出したのは、メルキュール版1924年刊行の「アルチュール・ランボー作品集」中、韻文で書かれたもののほとんど全部である。ただ数篇を割愛したが、そのためにランボーの特質が失なわれるというようなことはない。
私はずいぶんと苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されているが分かりにくいという場合が少なくないのは、語勢というものに無頓着すぎるからだと私は思う。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気をつけた。
語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしなかった。

     ★

 付録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の頃、ある日小林秀雄が大学の図書館かどこかから、写してきたものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボーに関する研究書の中から、小林が書き抜いてきたのであった、ことは覚えている。――テキストをご存知の方があったら、なにとぞ御一報くださるようお願いします。

     ★

 いったいランボーの思想とは?――簡単に言おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信していた。彼にとって基督教とは、たぶん一牧歌としての価値をもっていた。
そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかったはずだ。その陶酔を発想するということも、はやほとんど問題ではなかったろう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン言っていることも、要するにその陶酔の全一性ということが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、しかも人類とはいかにそのとるに足りぬことにかかづらっていることだろう、ということに他ならない。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務(つとめ)はすむというものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見えるほど、忘れられてはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、おそらくはここに発した。
ところで、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思想は、だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。もちろん夢というものは、容れられないからといって意義を減じるものでもない。しかしランボーの夢たるや、なんと容れられ難いものだろう!
言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、いわばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった宝島のごときものである。
もし曲がりなりにも行き道があるとすれば、やっとべルレーヌ風の楽天主義があるくらいのもので、つまりランボーの夢を、いわばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、もちろん、それにしてもその夢は容れられはしない。ただべルレーヌには、いわば夢みる生活が始まるのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかった。
ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、おそらくこういう所からである。

     ★

 終わりに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚くお礼を申し述べておく。
〔昭和12年8月21日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)

※「現代新聞表記」に改めてあります。「現代新聞表記」とは、現代かな遣い、常用漢字、現代送りがなを使用し、文語を口語に、常用漢字にない漢字(表外字)はひらがなに、副詞・接続詞なども原則的にひらがなを使用、さらに読点を適宜追加するなどして、読みやすくしたものです。
※ルビは( )内に示しました。編者。


後記
(原文)

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌
か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つ
てゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。

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中原中也は
「ランボオ詩集」の「後記」に
ランボー=パイヤン論を提示した後

そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかったはずだ。

――と述べて、ランボーの「感性的陶酔」について展開します。

そこで、
「陶酔の全一性」ということを言うのですが
「全一性」とは、
「完璧」「完全無欠」「無敵」と言い替えてもよいほどに
それ以外のことは取るに足らない些事(さじ=トリビュアル)であり
些事の対極にあるのが「全一性」ということなのですが
その些事に人類は血道をあげてばかりいる、と進めます。

「感性的陶酔」が、
新しい人類史を生むであろうと見なすほどに貴重なことと
ランボーには思えた、というのです。

ランボーの喜劇も悲劇もここにはじまったのである。

――と、しかし、双手をあげて賛意を表明することは控えるのですが……。

中原中也は、
人類は「食うため」にはどんなことでもやり遂げてきたけれど、
感性なんて犠牲にしてきたのだし、
今でもそうしているのだ。
こういうランボーの思想は、
嫌われはしまいが受け入れられることはあるまい。
まるで夢のようなことを言っているのだが、
夢というものは、
世間に受け入れられないからといって
意義を失うものではない。
ああ、
それにしてもランボーの夢とは、
なんと受け入れそうにもない夢なんだ!

――と、ランボーの夢に寄り添ってみせるのです。
そんな夢みたいなことは
世界に嫌われることはないにしても、
受け入れ難いことを言い添えるのです。
言い添えた上で、
世界に受け入れられない夢であっても、
その夢の果てにランボーが「洞見」したものは
「生の原型」というべき重大なもの、
それこそ「宝島」のようなものであると展開するのです。

ここが要(かなめ)です。

「生の原型」は、「あらゆる風俗あらゆる習慣以前」の「生の原理」であり、それを一度「洞見」=見抜いてしまったからには、忘れることはできないし、それを表現することもできない(貴重な)(大切な)ものなのだ。

確かに在ると分かっていながら、そこへどのようにすれば行く着くのか分からなくなってしまった「宝島」。

ランボーは、
それを発見したのだ、
と拍手を送ります。

そして、この道(行き道)があるとすれば、
ベルレーヌ!
その楽天主義くらいで、
ほかにはない。
ベルレーヌの道は、
ランボーよりもずっと無頓着な道だから、
ランボーとは異なる道なのだが、
ベルレーヌの夢にしても
世界から受け入れられることは難しい。
ただベルレーヌには、
「夢みる生活」がはじめられ、
生活自体が夢、夢自体が生活というような
行き道も帰り道もある夢なのだが、
ランボーの道は
夢は夢、生活は生活で
二つは繋がらないから、
世界が受け入れることはさらにないのだ。

ランボーの悲劇は、こうして生まれ、こうして急テンポなものだった――。

「異教徒=パイヤンの自由」が
ランボーの「洞見」を生んでいった経緯を
中原中也がこのように記したのは
昭和12年(1937年)8月21日のことで
この1か月後には
小林秀雄に「在りし日の歌」の清書原稿を託し
故郷山口に帰る予定でした。

「さらば東京! おゝわが青春!」と
「在りし日の歌」の後記に記して。

(つづく)

 *
後記

(現代新聞表記版)

 私がここに訳出したのは、メルキュール版1924年刊行の「アルチュール・ランボー作品集」中、韻文で書かれたもののほとんど全部である。ただ数篇を割愛したが、そのためにランボーの特質が失なわれるというようなことはない。
私はずいぶんと苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されているが分かりにくいという場合が少なくないのは、語勢というものに無頓着すぎるからだと私は思う。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気をつけた。
語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしなかった。

     ★

 付録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の頃、ある日小林秀雄が大学の図書館かどこかから、写してきたものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボーに関する研究書の中から、小林が書き抜いてきたのであった、ことは覚えている。――テキストをご存知の方があったら、なにとぞ御一報くださるようお願いします。

     ★

 いったいランボーの思想とは?――簡単に言おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信していた。彼にとって基督教とは、たぶん一牧歌としての価値をもっていた。
そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかったはずだ。その陶酔を発想するということも、はやほとんど問題ではなかったろう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン言っていることも、要するにその陶酔の全一性ということが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、しかも人類とはいかにそのとるに足りぬことにかかづらっていることだろう、ということに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務(つとめ)はすむというものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見えるほど、忘れられてはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、おそらくはここに発した。
ところで、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思想は、だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。もちろん夢というものは、容れられないからといって意義を減じるものでもない。しかしランボーの夢たるや、なんと容れられ難いものだろう!
言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、いわばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった宝島のごときものである。
もし曲がりなりにも行き道があるとすれば、やっとべルレーヌ風の楽天主義があるくらいのもので、つまりランボーの夢を、いわばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、もちろん、それにしてもその夢は容れられはしない。ただべルレーヌには、いわば夢みる生活が始まるのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかった。
ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、おそらくこういう所からである。

     ★

 終わりに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚くお礼を申し述べておく。〔昭和12年8月21日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)

※「現代新聞表記」に改めてあります。「現代新聞表記」とは、現代かな遣い、常用漢字、現代送りがなを使用し、常用漢字にない漢字(表外字)はひらがなに、副詞・接続詞なども原則的にひらがなを使用、さらに読点を適宜追加するなどして、読みやすくしたものです。
※ルビは( )内に示しました。編者。


後記
(原文)

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アル
チュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ
数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなこと
はない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳され
てゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過
ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気
を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうな
ことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正
も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たもの
を私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌
か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が
書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方が
あつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の
思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌とし
ての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にも
なかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなか
つたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つ
てゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他の
ことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづ
らつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える
程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、
恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボ
オの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふ
ものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボ
オの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、
謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した
以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るに
は在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義
があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと
無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしな
い。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、
夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ
所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海
の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。

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ランボーの思想とは、パイヤン=異教徒の思想だ――と
中原中也は「ランボオ詩集」の「後記」に
昭和12年8月21日の日付入りで表明しました。

これは
昭和2年に
ラムボオつて人はほんとに素晴らしいんだ。(略) 人が一番直接歌ひたいことを正直に実践してゐる。
とか
ランボオを読んでるとほんとに好い気持になれる。なんてきれいで時間の要らない陶酔が出来ることか!茲には形の注意は要らぬ。聖い放縦といふものが可能である!
とか
ランボーを肯定的に受け入れた流れから
一歩踏み込んで
中原中也が固有に捉えたランボー観を示したものです。
それが
パイヤン=異教徒の思想です。

この「パイヤン」とは
キリスト教以外の宗教(非キリスト教)
というほどの意味を指しているもので
ただちにランボーの無宗教性を
指摘したものではありません。

無宗教というより
ランボーにとってのキリスト教は
一牧歌としての価値をしか持っていなかったのだ
言い換えれば
キリスト教に一牧歌としての価値を認めているものだったのであり、
その立場からすれば
信じることのできるのは
感性的陶酔だけだった。

「地獄の季節」の中でガンガン言っていることも
陶酔が全ての全てでありながら
人類は陶酔以外のとるにたらないことにかまけている、ということだけだ。

というような把握は
当時、流布していたキリスト教的ランボー観や
一部で流行りはじめたランボー=シュールレアリスト説などへ
一石を投じたはずですが
大きな反響を与えるものではなかったようです。
というよりもむしろ
中原中也の
ランボー=パイヤン論は
小林秀雄のランボー論とともに
双璧といってもよい受け入れ方を示しました。

おおむね
「ランボオ詩集」は好評をもって迎えられ

十五年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、
中原訳でランボーを読み、「季節(とき)が流れる、お城寨(しろ)が見える」と歌ったの
であった。(大岡昇平「中原中也」角川文庫)

という状況でしたし
戦後発行された「ランボオ詩集」(昭和24年、書肆ユリイカ)の
売れ行きが好調であったり、
3巻本「ランボオ全集」(昭和29年、人文書院)には
11篇の中原中也訳が採用される
など
ランボー訳者としての認知も進みました。

(つづく)


後記

(現代新聞表記版)

 私がここに訳出したのは、メルキュール版1924年刊行の「アルチュール・ランボー作品集」中、韻文で書かれたもののほとんど全部である。ただ数篇を割愛したが、そのためにランボーの特質が失なわれるというようなことはない。
私はずいぶんと苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されているが分かりにくいという場合が少なくないのは、語勢というものに無頓着すぎるからだと私は思う。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気をつけた。
語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしなかった。

     ★

 付録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の頃、ある日小林秀雄が大学の図書館かどこかから、写してきたものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボーに関する研究書の中から、小林が書き抜いてきたのであった、ことは覚えている。――テキストをご存知の方があったら、なにとぞ御一報くださるようお願いします。

     ★

 いったいランボーの思想とは?――簡単に言おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信していた。彼にとって基督教とは、たぶん一牧歌としての価値をもっていた。
そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかったはずだ。その陶酔を発想するということも、はやほとんど問題ではなかったろう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン言っていることも、要するにその陶酔の全一性ということが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、しかも人類とはいかにそのとるに足りぬことにかかづらっていることだろう、ということに他ならない。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務(つとめ)はすむというものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見えるほど、忘れられてはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、おそらくはここに発した。
ところで、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思想は、だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。もちろん夢というものは、容れられないからといって意義を減じるものでもない。しかしランボーの夢たるや、なんと容れられ難いものだろう!
言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、いわばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった宝島のごときものである。
もし曲がりなりにも行き道があるとすれば、やっとべルレーヌ風の楽天主義があるくらいのもので、つまりランボーの夢を、いわばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、もちろん、それにしてもその夢は容れられはしない。ただべルレーヌには、いわば夢みる生活が始まるのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかった。
ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、おそらくこういう所からである。

     ★

 終わりに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚くお礼を申し述べておく。
〔昭和12年8月21日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)

※「現代新聞表記」に改めてあります。「現代新聞表記」とは、現代かな遣い、常用漢字、現代送りがなを使用し、文語を口語に、常用漢字にない漢字(表外字)はひらがなに、副詞・接続詞なども原則的にひらがなを使用、さらに読点を適宜追加するなどして、読みやすくしたものです。
※ルビは( )内に示しました。編者。


後記
(原文)

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌
か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つ
てゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。

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中原中也は
昭和2年の日記に――

8月6日(土曜)
ラムボオつて人はほんとに素晴らしいんだ。(略) 人が一番直接歌ひたいことを正直に実践してゐる。

8月22日(月曜)
ランボオを読んでるとほんとに好い気持になれる。なんてきれいで時間の要らない陶酔が出来ることか!茲には形の注意は要らぬ。聖い放縦といふものが可能である!

10月2日(日曜)
ラムボオはVanityで自らを殺した。(略)

11月4日(金曜)
ラムボオは自分のクリティクに魅領された。それが不可なかつた。

と、賛意と批判のどちらも含んだ記録を残し、

昭和10年11月26日には――

(略)ランボオの訳をしようと思へども、来る日も来る日も乗気にならぬ。(略) 然しランボオは面白いですよと私が云ふなら少しウソだ。(略)

と、「本音」を漏らしますが

「ランボオ詩集」の「後記」では
本格的な評言を展開し
この時点で到達したランボー観を披瀝しました。
これが
中原中也の最終的なランボー観です。

今回は「現代の新聞表記」に書き改めて読んだものを
原文とともに掲載します。

「現代新聞表記」とは、
現代かな遣い、常用漢字、現代送りがなを使用し、
文語を口語に、
常用漢字にない漢字(表外字)はひらがなに、
副詞・接続詞なども原則的にひらがなを使用、
さらに読点を適宜追加するなどして、
読みやすくしたものです。
※ルビは( )内に示しました。編者。

 *
後記

(現代新聞表記版)

 私がここに訳出したのは、メルキュール版1924年刊行の「アルチュール・ランボー作品集」中、韻文で書かれたもののほとんど全部である。ただ数篇を割愛したが、そのためにランボーの特質が失なわれるというようなことはない。
私はずいぶんと苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されているが分かりにくいという場合が少なくないのは、語勢というものに無頓着すぎるからだと私は思う。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気をつけた。
語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしなかった。

     ★

 付録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分からない。これは大正も末の頃、ある日小林秀雄が大学の図書館かどこかから、写してきたものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボーに関する研究書の中から、小林が書き抜いてきたのであった、ことは覚えている。――テキストをご存知の方があったら、なにとぞ御一報くださるようお願いします。

     ★

 いったいランボーの思想とは?――簡単に言おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信していた。彼にとって基督教とは、たぶん一牧歌としての価値をもっていた。
そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかったはずだ。その陶酔を発想するということも、はやほとんど問題ではなかったろう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン言っていることも、要するにその陶酔の全一性ということが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、しかも人類とはいかにそのとるに足りぬことにかかづらっていることだろう、ということに他ならない。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまえと燃えていりゃあ
義務(つとめ)はすむというものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見えるほど、忘れられてはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、おそらくはここに発した。
ところで、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思想は、だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。もちろん夢というものは、容れられないからといって意義を減じるものでもない。しかしランボーの夢たるや、なんと容れられ難いものだろう!
言い換えれば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、いわばあらゆる風俗あらゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないがまた表現することも出来ない、あたかも在るには在るが行き道の分からなくなった宝島のごときものである。
もし曲がりなりにも行き道があるとすれば、やっとべルレーヌ風の楽天主義があるくらいのもので、つまりランボーの夢を、いわばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、もちろん、それにしてもその夢は容れられはしない。ただべルレーヌには、いわば夢みる生活が始まるのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかった。
ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、おそらくこういう所からである。

     ★

 終わりに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚くお礼を申し述べておく。
〔昭和12年8月21日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
※ルビは( )内に示しました。編者。


後記
(原文)

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
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中原中也の日記の昭和10年は
12月31日
フランス語。戸張竹風訳ツアラトゥストラー読了。

で終わり、
翌11年(1936)は
1月6日
馬鹿どもといふものは、相手がしょんぼりしてると、張合がないやうなことを云ふけれど、それでて、相手がしょんぼりしてれば自己満足しているものなんだ。フランス語。ルナアルの日記。

ではじまり、
それまでと連続した生活がうかがえます。

ランボオの文字は見つからず
代わりに「フランス語」が連日記されるのは
翻訳の仕事が生活の中心になったのに加え
ランボーのみならず他のテキストへと関心を広げて
語学のいっそうの練達が求められていたからでしょうか。

年表をのぞいてみれば
昭和11年は

「四季」「改造」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。

とあり、
翻訳の仕事は前年から引き続いて
わずかながら生活の糧のレベルへ達していた様子です。
この年末に長男・文也が急逝する前に
「ランボオ詩抄」(山本書店、6月)は刊行されました。

日記6月28日に
山本文庫「ランボオ詩抄」出来。印税受く。
6月29日に
「ランボオ詩抄」発送。(以下略)

とあるのを最後に
昭和11年日記に
ランボーの名は記されず
(長男文也の死亡は詩人の生活を狂わせました)
次に現れるのは
昭和12年、鎌倉転居後に書き始められた
「ボン・マルシェ日記」の中でのことになります。

中原中也は
昭和12年初めから1か月余を
千葉市の中村古峡療養所に入院しますが
自主退院した直後に
小林秀雄ら旧知が多く住む鎌倉へ引っ越し
起死回生の暮らしをはじめます。
この時からつけられたのが
後に「ボン・マルシェ日記」と呼ばれることになった晩年の日記です。

この日記にも
ランボーの名はほとんど登場しませんが

(8月11日) Mercredi
野田書房より「ランボオ詩集」の初校来る。
わりつけが目茶々々なので閉口。
(略)

(8月23日) Lunndi
午前1時起床。「ランボオの手紙」(版画荘)を読了。

(8月25日) Mercredi
ランボオ詩集三校発送。
(略)

(8月28日) Samedi
(略)
ランボオ詩集四校発送。(責任校了とす。)
どんな本になることやら、俺は知らない。「永遠の中耳炎氏」即ち野田誠三がやることだ。俺は知らない。奴は校正刷を送る以外、何を問合せても一度の返事もしない。虫のいい奴!

(9月15日) Mercredi
(略)
上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
(略)

と、8月に「ランボオ詩集」が刊行される前後に
ランボーは集中して登場し
これが本当の最後になってしまいます。
この年の10月22日に
詩人は永眠します。

今回は
「ランボオ詩集」巻末の
後記を原文のまま読んでおきます。

 *
後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつとヹルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヹルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
〔昭和十二年八月二十一日〕

(角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳 本文篇」より)
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中原中也が
ランボーの翻訳に取り組みはじめたのは
昭和2年ごろといわれていますから
この頃の日記のランボーに関する記述を読んでみたのですが
日記自体が
昭和2年で中断され
次に再開されるのは
昭和9年です。

フランス語の習熟も
ランボーの翻訳も
この頃になると
深化したはずですから
ランボー観にも変化があったのかどうか
それを見るために
昭和9年以降の日記をめくってみます。

すると……
昭和9年の日記に
ランボーは1回も登場せず
ゲエテ、チエホフ、ジイド、シェストフ、ゴーゴリ、モリエール、バルザック、ルッソオ、ヷ
レリイ、プルウスト、ボオドレエル……らがあるだけで
昭和10年は一時中断して
4月に再開した日記の8月に

アミエル、ヹルレエヌ、シェストフらがポツンポツンとあり
ドストエフスキー、フランシスコ・カルコ、ゴンチャロフ、ルイ・コデ、
フィリップ、ブスケ、ボードレール、ルナアル……
とつづくのですが、
ようやく11月26日に

(略)ランボオの訳をしようと思へども、来る日も来る日も乗気にならぬ。ランボオは、立派だけれど見本だけを呈出してあとはアフリカに行つちまつたんだと云へよう。見本だけといふことは、こっちが見本を、つまりShapesを知らぬ場合は、時間は省けるし有難いことだ。然しこつちが楽しまうとするや、物足りないことだ。そこで、ランボオを立派だと人には云はねばならぬ。然しランボオは面白いですよと私が云ふなら少しウソだ。でもなんとか云つてても、そのうち訳してしまふとしよう。根気といふものが、人々に正当に馴染む、唯一の道であらうか。

と、やや長めのコメントがあり
「然しランボオは面白いですよと私が云ふなら少しウソだ。」に
少し驚かされますが
いろいろな理由があったのでしょうし

11月27日と12月1日には
ランボオを少し訳す。
12月9日に
ランボオを訳す。
12月10日、11日、12日、16日、17日、19日に
ランボオ。
と簡単ながら続きますから
集中して翻訳に取り組んだ様子が見えます。

全くの空白と
ランボーの一語ながら連続と
ランボーに関する記述の背後には
建設社版「ランボー全集」の発行計画と頓挫
そして山本文庫「ランボー詩抄」のための翻訳という
二つの仕事の成否が関係していたようです。

建設社版「ランボー全集」は
第一巻=詩を中原中也
第二巻=散文を小林秀雄
第三巻=書簡を三好達治という布陣で
昭和10年春に出版が計画されていたものでしたが
何かの理由で頓挫してしまいました。

中原中也は
この仕事のために
昭和10年の正月を
郷里・山口で過ごし集中しました。

この時に手がけた翻訳の一部は
詳しい経緯は分かっていないのですが
山本文庫の「ランボー詩抄」に収められることになって
無駄になったわけではありません。
「ランボー詩抄」は
昭和11年6月に発行されました。

これらの仕事はいずれ
「ランボオ詩集」に結実することになりますから
徒労ということではありません。

(つづく)


少年時 中原中也
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。

翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*
少年時  アルチュール・ランボオ
鈴木信太郎、小林秀雄共訳

        一

 この偶像、眼は黒く髪は黄に、親もなく、侍者もなく、物語よりも気高く、メキシコ人で
ありまたフラマン人、その領土は、傲岸無頼の紺碧の空と緑の野辺、船も通はぬ波濤
を越えて、猛々しくもギリシャ、スラヴ ケルトの名をもて呼ばれた浜辺から浜辺に亘
る。
森のはづれに、――夢の花、静かに鳴り、鳴り響き、光り輝く、――オレンヂ色の唇
をもつた少女、草原から湧き出る明るい流の中に組み合せた膝、裸身、虹の橋と花と
海とは、その裸身を暈(くま)どり、貫き、また着物で包む。
海のほとりのテラスに渦巻く貴婦人の群。少女たちや巨大な女たち、緑青の苔の中
には見事な黒人の女、木立と雪解けの小庭の肥沃な土の上に、直立する宝石の装
身具、――巡礼の旅愁に溢れた眼の、うら若い母と大きな姉、トルコの王妃、傍若無
人に着飾って闊歩する王女達、背の低い異国の女、また物静かに薄命な女たち。
何という倦怠だろう、「親しい肉体」と「親しい心」の時刻。

        二

 薔薇の茂みのうしろにゐるのは、彼女だ、死んだ娘だ。――年若くて亡つた母親が
石段を降る。――従兄の乗つた軽快な幌馬車は砂地を軋る。――(インドに住んでゐ
る)弟が、――夕陽を浴びて、あそこ、石竹の花咲く草原にゐる。――埋葬された老
人達は、丁字香の漂ふ砦に、すつくと立ちあがる。
黄金の木の葉の群は、将軍の家を取り巻く。家中が南方に居るのだ。――赤い街
道を辿れば、空家になつた宿屋に行き著く。城は売りもの。鎧戸ははづされてゐる。
――教会の鍵を、司祭は持つて行つたのだらう。――庭園の周りの番小屋には、人
が住んでゐない。柵は高く、風わたる梢しか見えぬ。尤も、中には見るものもないのだ
が。
草原を登つて行くと、鶏も鳴かぬ、鉄砧(かなしき)の音も聞えぬ小さな村落。閘門は
揚げられてゐる。ああ、立ち竝ぶ十字架の塚と砂漠の風車、島々と風車の挽臼。
魔法の花々は呟いてゐた。勾配が静かに彼を揺つた。物語のやうに典雅な動物が
輪を描いてゐた。熱い涙の永遠により創り出された沖合いに、雲がむらがり重つてゐ
た。

        三

森に一羽の鳥がゐて、その歌が、人の足を止め、顔を赤くさせる。
時刻を打たない時計がある。
白い生き物の巣を一つ抱えた窪地がある。
降り行く大伽藍、昇り行く湖がある。
輪伐林の中に棄てられた小さな車、或はリボンを飾つて、小径を駆け下る車がある。
森の裾を貫く街道の上には、衣裳を著けた小さな俳優たちの一団が見える。
最後に、人が餓え渇する時に、何者か追ひ立てるものがある。

        四

 俺は、岡の上に、祈りをあげる聖者、――パレスチナの海までも牧草を喰って行く平
和な動物のやうだ。
俺は陰鬱な肱掛椅子に靠れた学究。小枝と雨が書斎の硝子窓に打ちつける。
俺は、矮小な森を貫く街道の歩行者。閘門の水音は、俺の踵を覆ふ。夕陽の金の
物悲しい洗浄を、いつまでも長く俺は眺めてゐる。
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手
は空にうち続く道を辿つて行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆ふ。大気は動かない。小鳥の歌
も泉の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。

        五

 終に人は、漆喰の条目の浮き出した、石灰のやうに真つ白なこの墓を、俺に貸して
くれるのだ、――地の下の遙か彼方に。
俺は卓子(てえぶる)に肘をつく。ランプは、俺が痴呆のやうに読み返す新聞や何の
興味もない書籍を、あかあかと照らしてゐる。
俺の地底のサロンの上を遙かに遠く隔つて、人々の家が竝び立ち、霧が立ちこめる。
泥は赤く或は黒い。怪物の都会、果てしない夜。
それより低くに、地下の下水道。四方は地球の厚みだけだ。恐らく藍色の深淵か、
火の井戸もあらう。月と彗星、海と神話のめぐり会ふのも、恐らくこの平面かもしれ
ぬ。
懊悩の時の来る毎に、この身を、碧玉(サファイア)の球体、金属の球体と想ひなす。
俺は沈黙の主人。円天井の片隅に、換気窓のやうな一つの姿が、蒼ざめてゐるのは
何故だらうか。

(「ランボオ全集第2巻 飾画・雑纂・文学書簡他」より、人文書院 昭和28年)

※なるべく新漢字を使用し、原作のルビは、難読字や訳者独特の読み以外を排し、
( )内に記しましたが、現代カナに直しました。編者。

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中原中也は
ランボーとの出会いを
「ランボーという事件」とはもちろん言っていませんが
京都で知り合った富永太郎から
ランボーの存在ほかフランス象徴詩の活動を知って
そのことで上京する決意を固めた
そのことがダダ詩人からの脱皮のきっかけになったのだとしたら
これを「事件」と言わずになんと言えばいいものか――。

そのほかに言いようがないので
「ランボーという事件」と言っておくのですが
では
その事件は
中原中也の日記の中に
どのように捉えられているでしょうか
それを見ることにします。

中原中也の日記が
現存するのは
昭和2年(1927年)からのものになりますが
最も古いのが

2月25日(金曜)
聖書。スチルネル。地理書。
ヴェルレエヌ。ボオドレエル。ラムボオ。
ロダン。植物・鉱物・動物。ゴリキイ。
余は当分の読書を、右の範囲に於てする。これは実に不思議なクリティク精神の顕現が与へた、論理的範囲なのである!

です。
ランボーは、
スタイナー
ベルレーヌ
ボードレール
ロダン
ゴーリキー
……の中に交じって
特別視されているほどではありません。

以下

3月3日(木曜)―5日(土曜)
私は一切を認識した、
(略)
(ランボオは愛がまだ責任のある時にカルチュアをもつ努力が出来た、現金的人気があつた、それであんなに早く歌が切れた。いいや、それはあとにヴェルレエヌがゐるからといふので安心したこともその理由ではある、それ位ランボオを純潔な人間と考へる位分る人には造作もないことだ!)

4月23日(土曜)
世界には詩人はまだ3人しかをらぬ。
ヴェルレエヌ
ラムボオ
ラフォルグ
ほんとだ! 3人きり。

5月29日(日曜)
すべてラムボオ以前の所謂自然詩人とは風景の書割屋也。

6月11日(土曜)―12日(日曜)
この自然詩人ランボオと
相違の所以。
あの自然詩人ワーズワース

7月19日(水曜)
ラムボオ    印象的情感+自己批評
ヴェルレエヌ 情感的印象+生きることについての心懸

7月29日(金曜)
Rimbaud est plus romaintique que Verlaine.
C'est seul différent entre ils.

8月6日(土曜)
ラムボオつて人はほんとに素晴らしいんだ。Commédie de la soifを読め。
人が一番直接歌ひたいことを正直に実践してゐる。

8月22日(月曜)
ランボオを読んでるとほんとに好い気持になれる。なんてきれいで時間の要らない陶酔が出来ることか!
茲には形の注意は要らぬ。
聖い放縦といふものが可能である!

10月2日(日曜)
ラムボオはVanityで自らを殺した。
これは私に分るだけのこと。

10月3日(月曜)
詩人のテーマは古来
ヴァニティと
情感(ヴェルレエヌの)と
恋との三種のみである。
(ポオのタメルランは一見例外だが、あれはヴァニチイに属す)、

11月4日(金曜)
ラムボオは自分のクリティクに魅領された。それが不可なかつた。

(「新編中原中也全集 第5巻 日記・書簡 本文篇」より)


以上、ランボーの名前が現れる日記の
昭和2年の分だけを
拾いました。

名前が出ていなくても
ランボーに関連した記述は
いくらでもありそうですが
ここでは限定して
ピックアップしました。

支持の表明と
若干の批判と
ランボーへの見極めとが入り混じり
詩人固有の鋭敏な把握が散らばっています。

(つづく)


少年時 中原中也
黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆(きざし)のやうだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。

翔(と)びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

*
少年時  アルチュール・ランボオ
鈴木信太郎、小林秀雄共訳

        一

 この偶像、眼は黒く髪は黄に、親もなく、侍者もなく、物語よりも気高く、メキシコ人でありまたフラマン人、その領土は、傲岸無頼の紺碧の空と緑の野辺、船も通はぬ波濤を越えて、猛々しくもギリシャ、スラヴ ケルトの名をもて呼ばれた浜辺から浜辺に亘る。
森のはづれに、――夢の花、静かに鳴り、鳴り響き、光り輝く、――オレンヂ色の唇をもつた少女、草原から湧き出る明るい流の中に組み合せた膝、裸身、虹の橋と花と海とは、その裸身を暈(くま)どり、貫き、また着物で包む。
海のほとりのテラスに渦巻く貴婦人の群。少女たちや巨大な女たち、緑青の苔の中には見事な黒人の女、木立と雪解けの小庭の肥沃な土の上に、直立する宝石の装身具、――巡礼の旅愁に溢れた眼の、うら若い母と大きな姉、トルコの王妃、傍若無人に着飾って闊歩する王女達、背の低い異国の女、また物静かに薄命な女たち。
何という倦怠だろう、「親しい肉体」と「親しい心」の時刻。

        二

 薔薇の茂みのうしろにゐるのは、彼女だ、死んだ娘だ。――年若くて亡つた母親が石段を降る。――従兄の乗つた軽快な幌馬車は砂地を軋る。――(インドに住んでゐる)弟が、――夕陽を浴びて、あそこ、石竹の花咲く草原にゐる。――埋葬された老人達は、丁字香の漂ふ砦に、すつくと立ちあがる。
黄金の木の葉の群は、将軍の家を取り巻く。家中が南方に居るのだ。――赤い街道を辿れば、空家になつた宿屋に行き著く。城は売りもの。鎧戸ははづされてゐる。――教会の鍵を、司祭は持つて行つたのだらう。――庭園の周りの番小屋には、人が住んでゐない。柵は高く、風わたる梢しか見えぬ。尤も、中には見るものもないのだ
が。
草原を登つて行くと、鶏も鳴かぬ、鉄砧(かなしき)の音も聞えぬ小さな村落。閘門は揚げられてゐる。ああ、立ち竝ぶ十字架の塚と砂漠の風車、島々と風車の挽臼。
魔法の花々は呟いてゐた。勾配が静かに彼を揺つた。物語のやうに典雅な動物が輪を描いてゐた。熱い涙の永遠により創り出された沖合いに、雲がむらがり重つてゐた。

        三

森に一羽の鳥がゐて、その歌が、人の足を止め、顔を赤くさせる。
時刻を打たない時計がある。
白い生き物の巣を一つ抱えた窪地がある。
降り行く大伽藍、昇り行く湖がある。
輪伐林の中に棄てられた小さな車、或はリボンを飾つて、小径を駆け下る車がある。
森の裾を貫く街道の上には、衣裳を著けた小さな俳優たちの一団が見える。
最後に、人が餓え渇する時に、何者か追ひ立てるものがある。

        四

 俺は、岡の上に、祈りをあげる聖者、――パレスチナの海までも牧草を喰って行く平和な動物のやうだ。
俺は陰鬱な肱掛椅子に靠れた学究。小枝と雨が書斎の硝子窓に打ちつける。
俺は、矮小な森を貫く街道の歩行者。閘門の水音は、俺の踵を覆ふ。夕陽の金の物悲しい洗浄を、いつまでも長く俺は眺めてゐる。
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手は空にうち続く道を辿つて行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆ふ。大気は動かない。小鳥の歌も泉の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。

        五

 終に人は、漆喰の条目の浮き出した、石灰のやうに真つ白なこの墓を、俺に貸してくれるのだ、――地の下の遙か彼方に。
俺は卓子(てえぶる)に肘をつく。ランプは、俺が痴呆のやうに読み返す新聞や何の興味もない書籍を、あかあかと照らしてゐる。
俺の地底のサロンの上を遙かに遠く隔つて、人々の家が竝び立ち、霧が立ちこめる。泥は赤く或は黒い。怪物の都会、果てしない夜。
それより低くに、地下の下水道。四方は地球の厚みだけだ。恐らく藍色の深淵か、火の井戸もあらう。月と彗星、海と神話のめぐり会ふのも、恐らくこの平面かもしれぬ。
懊悩の時の来る毎に、この身を、碧玉(サファイア)の球体、金属の球体と想ひなす。俺は沈黙の主人。円天井の片隅に、換気窓のやうな一つの姿が、蒼ざめてゐるのは何故だらうか。

(「ランボオ全集第2巻 飾画・雑纂・文学書簡他」より、人文書院 昭和28年)

※なるべく新漢字を使用し、原作のルビは、難読字や訳者独特の読み以外を排し、
( )内に記しましたが、現代カナに直しました。編者。

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